佐高信,2004,『城山三郎の昭和』(角川書店・東京)

目次は略

城山の作家になる原体験

評論家の伊藤肇を司会とし,山崎豊子,秋元秀雄,三鬼陽之助,それに城山というメンバーをそろえた座談会「事実は小説よりも奇なり」(『財界』一九七三年五月一五日号,六月一日号掲載)で,城山は,/「作家になろうと思ったのは,われわれの世代は戦争でひどい目にあってきたでしょう.軍隊という組織悪の標本みたいなものを身にしみて体験してきたから,そういうものを書きとめ,書くことによって復讐したいという気がある./それと同時に,いま日本は経済大国となり,すぐれた経済社会を作り上げていますが,日本の小説は,どうも,そういう経済社会の外で書かれているような気がするんです.小説が人間の生きかたを問うものであるとすれば,この経済界でどう生きるか,また,どういうかかわりあいかたをしていくかということは,非常に大きな問題なのに,どうも,それらをはずれたところで小説が書かれていることに対する一種の不満があった」/と執筆の動機を語っている.*1

伊藤肇と城山とは友達.本書中にも,「城山三郎を「絶対に形の崩れない男」と評したのは,互いに心許し合った友達だった伊藤肇である.安岡正篤に師事し,人物評論家として健筆を揮った伊藤とは思想的立場とか,いろいろ違いはあった.しかし,ほぼ同い年の友として城山は親しいつきあいを続けたのである*2」とある.


大岡昇平への傾倒

『風の中の背広の男』という仮題を『落日燃ゆ』に変えるよう提案したのは新潮社の編集者の梅澤英樹だった.大岡昇平の担当者でもあった梅澤が,二人の絆をさらに深める触媒となった*3

直木賞受賞作『総会屋錦城』に関連して

錦城にはモデルがいた.しかし,すでに亡くなっていたので,やはり,風格のある総会屋だった久保祐三郎などに会った.久保も故人となったが,久保は宮沢賢治の「雨ニモ負ケズ」をもじった「総会屋のうた」をつくっている.

雨ニモマケズ/風ニモマケズ/インフレニモ/デフレノ嵐ニモマケナイ/殺シテモ滅多ニ死ナヌ体ヲモチ/慾ハナイガ銭ハホシク/貫禄ハナイクセニ/ハッタリハアッテ イツモ天下ヲ論ジテイル/一日ニ合成酒二合半ト/新生ト三バイノ麦飯ヲクライ/アラユルコトヲ/自分ヲ勘定ニ入レテ/ヨクミキキシ ワカリ/ソシテ忘レズ/大都会ノビルノ谷間ノ/陽ノ当タラヌ場所ニイテ/盆暮二回ノ新聞ヲ出シ/東二株主総会アレバ/行ッテガタガタ一席ヤリ/西ニ増資ノ会社アレバ/行ッテ ソノ無償ヲ請イ/南ニフエル課長アレバ/恐ガラナクテモイイトイイ/北ニ喧嘩ヲ売ル重役アレバ/アンタガタ損ダカラ ヤメロトイウ/景気ガイイ時ハ遊ビ/不景気ノ時モ食エテ/所得税モ区民税モ払ワナイ/ミンナニ浪人ト呼バレ/賞メラレモセズ/馬鹿ニモサレズ/ソウイウモノニ/ワタシハナリタイ*4

旧制高校的なるものと城山三郎.佐高と城山との対談.

佐高(強調部は原文ゴシック以下同様) この本(『運を天に任すなんて』)で興味深かったのは,「寮歌嫌い」のところです.中山さんも城山さんも寮歌祭のような催しには一度も行ったことがない,と.
城山 僕も寮歌祭には何回出ろと言われても絶対いやでね.地方へ行っても同窓会なんかがあって,終わったら寮歌を歌ったりするけど,それだけは勘弁してくれと言う.その代わり,本にサインしたりということならするけど.
佐高 これも箱嫌いの一環ですね.
城山 あれは旧制高校という箱だから.
佐高 旧制高校の弊衣破帽や,いまだに自分たちはエリートで,何をやっても許されるんだという意識.旧制高校の雰囲気の裏に,例の一高の「栄華の巷低く見て……」みたいなものが感じられるから
城山 ほとんどの寮歌は全部そうでしょう.みんな他を低く見ているわけですよ.
佐高 俺たちは特別なんだというエリート意識ですね.
城山 それが,エリートだからこうしなければいかんとか,真っ先に知らなければいかんとかいうことと直結すればいいけれど,そういうものはなくて,ただ優越意識だけが残っている.だから中山さんもいやなんだろうね.
佐高 特権階級の闇切符みたいなものですか.
城山 何もしなくてもいい.ただそこにぶら下がっていればいい,ということになるから.だけど「寮歌嫌い」の話は,きっと今のリーダーたちにとってはショックだよ.
佐高 だと思いますね.急所は「勲章もらわざる弁」と「寮歌嫌い」ですね.*5

城山の旧制高校嫌いがあらわれる一節.城山自身正統エリートコースを歩んだわけではなかったから,そういう立ち位置込みの視点からの発言である.

佐高から見た城山のポジション

吉村昭との対談で城山は,梶井基次郎が好きで「夏目漱石のよさがわからない」ところが自分たちは似ている,と語っている./そんな前提を置いた上で,私(佐高―引用者注)が『夕刊フジ』の連載の最後に書いた「経済小説はなぜ読まれるか」を引こう./(一行アキ―引用者注)/「漱石は金が欲しくて書いた作品が,今から思ふと一番良いと言つたといふ.このやうな逆説も口にすれば今なほ汚くなるのは止むを得ないが,日本文学もいよいよ金銭のことを書かねば近代小説とは言ひ難くなった」/“小説の神様”と言われた横光利一は,昭和十年に発表した『家族会議』の「作者自身の言葉」にこう書いた.そして,「ヨーロッパの知性とは金銭を見詰めてしまった後の知性」であるのに,「日本の知識階級の知性は利息の計算を知らぬ知性である」と喝破した./株の世界を扱ったこの作品は,その意図に反して成功した試みとは言い難いが,確かに横光の指摘する通りだろう./学者や芸術家のような,漱石の言う“道楽的職業”は別として,製造業にもサービス業にしても,ビジネスは普通,他人のためにモノを造ったり売ったりする「他人本位」の仕事である.そして否応なくビジネスマンは金銭を見詰めさせられる.しかし,横光の鋭い指摘の後も,日本の小説の世界には,作家が自分の私生活を描く私小説に代表されるように,「自己本位」の道楽的職業生活者しか登場しなかった./道楽的職業でないビジネスは,他人のためにモノを造ったり売ったりするのだから,どうしても「自己を曲げる」ということが出てくる.そして,「会社」という組織の中で虫の好かない奴とも協力して仕事をやらなければならない現代のビジネスマンは,二重に自己を曲げざるをえない./しかし,こうした屈折を,これまでの,いわゆる純文学作家は完全に見落としていた.「売れないのが純文学で,売れるのが大衆文学か」と梶山季之は皮肉ったそうだが,いわゆる純文学は“他人本位の屈折”を経たことのない作家たちのギルド的文壇文学だったのである./もちろん,金銭に背を向け,反俗的姿勢をとることによって,鋭く「現実」を批判したいくつかの純文学作品の功績を否定するつもりはない.ただ,醜悪な現実に背を向けて,ひたすら自己の内面を掘り下げる態度がマンネリ化し,いわばラッキョウの皮むきに似た作業になったとは言えるだろう.多くの作品が「社会」から離れ,「現実」を映すことがなくなってしまったのである./そこに,現実のビジネス社会を反映した経済小説が流行する素地があった./昭和三十二年に「輸出」で『文學界』新人賞を受け,経済小説のパイオニアとなった城山三郎は,当時,/「日本の小説は,どうも,経済社会の外で書かれているような気がするんです.小説が人間の生きかたを問うものであるとすれば,この経済界でどう生きるか,また,どういう関わりあいかたをしていくかということは,非常に大きな問題であるはずなのに,それらをはずれたところで小説が書かれていることに対する不満がありました」/と述べている.*6

城山と皇太子と上原専禄一橋学長(当時)

戦後まもなく,城山は一橋大学の学園祭に来た皇太子(現天皇)を見た.「供一人連れただけの少年皇太子の清純な像は,私の心に切迫した親愛感を与えた」という./この時,学生たちの中には「何のいわれもないのに」と来校拒否の動きをする人たちもおり,それに反発する学生もいて,不穏な空気が漂った./しかし,当時の学長,上原専禄の「何のいわれもなければ,学園が解放される一日,とくに皇太子に限って来校を拒むのはおかしい」という一言で収まった./「前屈みの長身に白髪が美しかった」上原は,平和運動の担い手でもあり,「左右両派を納得させる」雰囲気を備えていた.*7

上原専禄は,旧制愛媛県立松山中学校→1922年東京高等商業学校(現・一橋大学)専攻部経済学科卒→東京商科大学(現・一橋大学)研究科入学→ウィーン大学留学→1926年高岡高等商業学校(現・富山大学)教授→1928年東京商科大学教授.1946年高瀬荘太郎の後を継ぎ東京産業大学(現・一橋大学)学長に就任.学長在任中は社会科学を総合的に扱う社会学部の設立に尽力.1949年一橋大学社会学部教授就任.


■著者略歴(本書より)
1945年山形県生まれ.慶應義塾大学法学部卒業.高校教師,経済雑誌編集長を経て,現在,評論家として活躍中.高杉良姜尚中福島みずほなどと共著あり.

■雑記
経済小説の草分けとして知られる城山三郎であるが,その作品の原点には自身の戦争体験があるとの指摘には目を開かされた.それ以外にも,小説家集団の中での城山の経歴とポジショニングを垣間見られてよかった(「三島由紀夫批判」など).

■資料
佐高信『文学で社会を読む』(岩波現代文庫).
藤島泰輔『孤獨の人』(読売新聞社).「扉に「心からなる敬意と友情をもってこの書をクラスメート皇太子殿下に捧ぐ」とあるように,これは現天皇学習院時代の“御学友”である藤島が一九五六年に発表した作品で,藤島は「あとがき」に「ぼくはこの作品が題材だけの興味でよまれ,評価されることを最も恐れている」と書いたが,『朝日新聞』が社会面のトップで,/「皇太子に青春を……」/と報じ,センセーションを巻き起こした.学習院の先輩の三島由紀夫は序文で,この『孤獨の人』は「存在論的孤獨の人なのではなく,ただ制度によつて孤獨なのである」から,「この少年の孤獨をただ人間的に救濟するといふ企ては,はじめから矛盾を含んでゐる」と書いている.*8

*1:p.45

*2:p.61

*3:p.60

*4:pp.76‐8

*5:pp.154‐5

*6:pp.193‐5

*7:p.240

*8:p.243