真下五一,1971,『芥川賞の亡者たち』(R出版・東京)

目次は略

芥川賞受賞者の属性が多様化

彼は選考委員ではないので,第三者としての立場で語られたのだろうが,やはり主催者が主催者だけに頭から毒づくわけにはいかなかったろう.だが先の沖縄作家や,続いての外地育ちの作家などの例,それにそれ以降,学者台頭の兆候のみられることなど,むしろそうした新しい傾向の中に日本の文学界は大さな*1警鐘的な発掘をしたことを強張*2した点であった.そして,こうした傾向が,その節選考委員の一部で疑問視されたところもあったようだが,自分はそれも別に一般的な文学次代層の衰微のせいだとは思わないと言い足すのだった.*3


文学賞の種類いろいろ

文学賞の種類というのには図表まで作ってあって,年代順にズラリと並べてある.創設年のいちばん古いのは,一部,文学賞をも含む「朝日賞」を別にすれば,やはり昭和十年の「芥川賞」と「直木賞」が最も古く,次が十六年の「野間文芸賞」,そして二十二年の「女流文学賞」と「日本推理作家協会賞」,続いて二十五年の「読売文学賞」,二十八年の「エッセイストクラブ賞」と「オール読物新人賞」,二十九年の「小説新潮賞」「新潮社同人雑誌賞」「江戸川乱歩賞」三十年の「農民文学賞」「文学界新人賞」三十三年の「群像新人文学賞」「女流新人賞」,三十四年の「文藝賞」「田村俊子賞」三十五年の「新日本文学賞」三十六年の「オール読物推理小説新人賞」三十八年の「小説現代新人賞」「吉川英治文学賞」四十年の「太宰治賞」「谷崎潤一郎賞」「長谷川伸賞」「マドモアゼル女流短編新人賞」そして,四十一年以降後親切のもので「円卓賞」となっていた.むろんこの他に児童文学賞や京都だけの吉井勇賞など,そして新しい「河出文化賞」や「菊池寛賞」等もあるが,「朝日賞」や「毎日芸術賞」同様,後者はその一部に文学を含むものに過ぎない.*4

ここにあげられたのは,作中登場人物がメモしていたノートに記載された賞に限っている.地域文学賞みたいなものや小さいものも含めると数え切れないくらいあるだろう.



■雑記
芥川賞にとりつかれた左傾教員が,病身の妹を看病しつつ琵琶湖地方で同人誌と関わり文学修行をする話.話自体はフィクションなのだろうが,文学者や芥川賞にまつわる話題は事実に取材しているようだ.この本の内容はとりたてて目を引くものではなく,むしろ著者の人となりや経歴の方に興味をひかれた.文学を志すものは皆東京に言ってしまうという批判めいた言辞が本書には幾度か出てくるのだが,このような文学者(志望者)と一線を画して地方に留まり後進を指導した真下さんはの経歴や哲学はどのようなものだったのだろうか.


■著者略歴
明治39年5月5日、京都府丹後峰山町に生まれる。明治大学在学中から執筆活動に入る。昭和十年代、舟橋聖一を軸に、評論の野口富士夫、福田恒存、小説の豊田三郎桜田常久、高木卓、児童文学の坪田譲治らすでに各界で活躍の中堅メンバー等と行動文学運動をはじめ、意欲的に文芸活動を展開。『若草』『作家精神』『行動文学』『三田文学』『文学界』等を舞台に作品を次々に発表。特に京都の旧弊・因習に真正面から向き合った短編『暖簾』『仏間会議』は問題作として注目され、芥川賞候補にもなった。戦前・戦後を通じ、六十近くに及ぶ単行本のほか、長編新聞連載も十数作、さらに十余の長編雑誌連載など、膨大な作品を残した。『京ことば事典』は文献としても貴重なものになっているが、真下の「京ことば保存」に傾けた情熱とその仕事は特筆に値する。長編小説『京都の人』(講談社)は会話部分はもとより全編を京ことばの会話体で尽くした異色の作品。京ことばの滅び行く様を看過できないという真下の思いは晩年にかけて一層募り、各界に保存の大切さを訴える一方、生の音声で京ことばを残すという事業には自らも乗り出し、LPレコード化してこれを実現した。第一回・京都文化功労者。京都文化団体懇話会・初代会長。昭和53年3月23日、自宅で七十二年の生涯を閉じた(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです) *5