永井龍男(他),1979,「芥川賞の研究―芥川賞のウラオモテ」(みき書房・東京)

目次
1.芥川賞の歴史と背景―芥川賞のウラオモテ―
(略)
2.芥川賞と私―受賞作家十八人の肉声―
(略)
3.芥川賞の現在―受賞の隘路を衝く―
(略)

永井龍男佐佐木茂索との対談.佐佐木の発言

佐佐木(強調原文)(前略)或る種の匿名批評家は「宣伝もあるだろうけれども」といっているが,菊池寛もそれは宣伝だといっているんでね.しかし今日では,はっきり公的なもので,商業政策上,無理に新人作家を作り出したいとはだれも考えていない.これはひじょうにいいことだと思いますね./永井(強調原文)たしかに公的なものになってきたし,社会的な大きなトピックにもなってきましたね.*1

二人の発言は1959年当時.ちなみに石原慎太郎太陽の季節」は1955年発表で同年第1回文学界新人賞・翌年第34回芥川賞である.1957年(第38回芥川賞)には大江「死者の奢り」VS開高健「裸の王様」バトル.「公的」と永井は言っているが,このときに編集者や春秋側の銓衡過程への介入は大きくなかったのか?


芥川賞がなぜ権威となりえたかについて.橋爪健の論.

なぜ芥川賞がこんなにも強力な権威をもつようになったか.その第一は,いわゆる“大御所”として企業にも文壇を制覇していた菊池寛主宰の〈文藝春秋〉の威力である.第二には,それまで文壇の檜舞台だった〈改造〉や〈中央公論〉が,懸賞小説を募集して新人を発掘しながら,その入選者の育成におろそかだったのに対して,文藝春秋社がその弊を見ぬいて,あくまで芥川賞作家を庇護し,しぜんと自陣を賑わした商策の成功である./しかも第三に,最初から太宰治の落選事件などが起き,芥川賞の出現がいろいろな意味で問題になったこと,さらにそのときの入選者石川達三などのその後のめざましい躍進のために,改造などの懸賞小説にとって代って大いに文壇やジャーナリズムの注目を集めたことなどが考えられる.そのため改造では,まもなく懸賞小説の募集をやめてしまった.*2

のだそうだ.検証する必要はあるけれどそうだろうなという指摘.


文藝春秋の発展について

文藝春秋が,芥川,久米,直木三十五など友人の協力や,若い者たちの奮励で意外な発展を見せ,今や中央公論,改造などを凌駕する,五百ページに近い新総合雑誌となって,文壇ジャーナリズムの主座を占めた.とくに流行作家と新進作家とが文壇ギルド的にはじめた同人雑誌が,商売雑誌的に変貌していっただけに,文壇と企業とが緊密に結びついて,他誌には見られない異常な文壇勢力を勝ちえたのだ.*3


日本文学振興会設立

火野葦平の劇的入賞によって一だんとクローズアップされた芥川賞は,その直後,一応文藝春秋社とはなれた形で設立された財団法人〈日本文学振興会〉によってまかなわれることになった.私的な一営利会社の宣伝行事と見られがちなこの賞に,公的な性格を与えようとしたものだ.しかし,その財源は文藝春秋社の寄付に頼っているし,理事長菊池寛以下,理事も監事も全部,芥川,直木両賞の選考委員と文藝春秋社員とからなっているところを見れば,ただ看板をぬりかえただけで,中味は同じようなものだ.*4


芥川賞の転機.戦後すぐのことである.

芥川賞復活―まず選考委員が改新された.佐藤,宇野,瀧井,川端,岸田の旧委員に,新しく丹羽文雄舟橋聖一坂口安吾石川達三の四人の流行作家を加え,副賞も五万円となって,昭和二十四年上期から発足することになった./なにしろ久しぶりの芥川賞であり,委員も半分若くなったので,新旧委員の呼吸がぴったり合わなかった.旧委員が私小説的な芸術性を重んずるのに比べて,新委員は戦後ジャーナリズムの要求する大衆性を,その芸術性に加えようとする傾向が強かった./その上,進行係をつとめる者が,もちろん商業主義に立つ編集方針からだろうが,選考委員たちの意見を牽制し,入賞をリードするような傾向が出てきた.このことは,いつも無遠慮なしつこい選後評をかくので名物となった宇野浩二が,「第十六回ぐらいまでは選考委員の意見が八分通り通ったが」戦後は「文藝春秋文藝春秋新社の代表をかねているのではないかと憶測されるような芥川賞係の人の希望が五分半か六分ぐら入れられるようになった」と書き,佐藤春夫も,「あまり編集部が強硬に主張されるのは(もしそういう事実がありとすれば)ご遠慮願います」と書いているのでも分かる.*5

変化その一,選考委員の一新による価値観の相違.変化その二,文藝春秋社およびその編集部の主張が選考に入ってくる.


直木と芥川賞との混交.昭和12年ですでに.

第二十八回(昭和27年下半期のこと―引用者注)には,〈或る「小倉日記」伝〉の松本清張,〈喪神〉の五味康祐という,数千万の年収をほこる巨大な流行作家を生みだした.この両作は,むしろ直木賞に価*6するもので,芥川賞直木賞との混淆が見られる./かつて昭和二十年,純文学作家井伏鱒二が〈ジョン万次郎漂流記〉で直木賞に入選したとき,井伏がはたして受けるかどうかと心配されたが,井伏はちょうど集金旅行の帰りだったのか,「欣快の至りです」と大きく出て五百円もらった.そのとき菊池寛は「直木賞も井伏君をえて,新生命を開きえたと思う,云々」と書き,久米正雄も,「純文学として書かれたものだが,このくらいの名文は当然大衆文学の世界に持ちこまれなくてはならぬ」として,「吾々は将来もっとこうした切りこみを遠慮なく目論むから,純文学の名に囚われてマゴマゴしている作家たちは,警戒待望,いずれなりとするがよろしい」と書いた.このときからすでに文藝春秋社による純文学と大衆文芸とのかきまぜは始まっていたのだ.純文学の風俗小説化を主唱した横光利一の〈純粋小説論〉(昭和十年―原文)なども,その支えになっていた.それが昭和三十年代の巨怪なマス・コミの発展によって,ますますその傾向を強めてきた./「芥川賞は今更いうまでもなく,いわゆる純文学のために設けられたものである.されば,右の有様であれば,芥川賞の『敗北』ということになるのである」という宇野浩二の正論などは,今やジェット・エンジンに吹きとばされる木の葉みたいになってしまった.*7


遠藤周作開高健の対談.芥川賞を知らなかった遠藤

遠藤 きみ,芥川賞を貰う前に,芥川賞,知っとった?
開高 あたりまえでしょう.
遠藤 いつ頃,知っとった?
開高 子供の頃から知っておったですよ.
遠藤 情けないことだが,僕は堀田さんが貰うまで,芥川賞って知らなんだよ.
開高 ほんとかい,オイ.
遠藤 ほんとだ.戦後派作家が書き出した頃,学生だったからね,あまり知らなかったんですよ.
開高 ほんとかね.
遠藤 ほんと.芥川賞って,そんなに有名じゃなかったんだよ,おれの頃.きみ,ほんとうに子供の頃から知っとったのかね.
開高 知ってますよ.石川さんが貰ったのが昭和十三年頃でしょう.明治大正昭和文学全集ようなものを,ぼくは愛読していましたからね.*8

思わず爆笑してしまったのは今の感覚なんだろうか.遠藤(1923年3月27日)は東京府生まれだし,父は東京帝大独法科卒の銀行員,母は東京音楽学校ヴァイオリン科在学してたし,文化的にいえば当時としてはすごく恵まれておった部類に入るだろう(満州に行ったり両親の離婚があったりはしたけれども).で,遠藤が芥川賞の存在を知った堀田の受賞は第26回(1951年下半期)である.このとき遠藤28歳でちょうどフランス留学していたとき.フランス滞在中に芥川賞の報が入ったのか?


■雑記
銓衡委員や受賞者,あるいはその両方を経験したものの立場から芥川賞にまつわるエピソードが豊富で面白い.文芸誌や新聞に掲載されたエッセイ,対談,インタビューといった雑文を一冊の本としてまとめていて便利.おさえられている時期は79年あたりまでの事情である.それにしても開高と遠藤の対談で,遠藤が「芥川賞知らない」発言したのに対し,開高が「マジでマジで?」と繰り返し確かめる情景がものすごくわらけた.

*1:p.18

*2:p.45

*3:pp.46‐7

*4:p.70

*5:pp.98‐9

*6:原文ママ

*7:p.118

*8:pp.169‐170