真下五一,1971,『芥川賞の亡者たち』(R出版・東京)

目次は略

芥川賞受賞者の属性が多様化

彼は選考委員ではないので,第三者としての立場で語られたのだろうが,やはり主催者が主催者だけに頭から毒づくわけにはいかなかったろう.だが先の沖縄作家や,続いての外地育ちの作家などの例,それにそれ以降,学者台頭の兆候のみられることなど,むしろそうした新しい傾向の中に日本の文学界は大さな*1警鐘的な発掘をしたことを強張*2した点であった.そして,こうした傾向が,その節選考委員の一部で疑問視されたところもあったようだが,自分はそれも別に一般的な文学次代層の衰微のせいだとは思わないと言い足すのだった.*3


文学賞の種類いろいろ

文学賞の種類というのには図表まで作ってあって,年代順にズラリと並べてある.創設年のいちばん古いのは,一部,文学賞をも含む「朝日賞」を別にすれば,やはり昭和十年の「芥川賞」と「直木賞」が最も古く,次が十六年の「野間文芸賞」,そして二十二年の「女流文学賞」と「日本推理作家協会賞」,続いて二十五年の「読売文学賞」,二十八年の「エッセイストクラブ賞」と「オール読物新人賞」,二十九年の「小説新潮賞」「新潮社同人雑誌賞」「江戸川乱歩賞」三十年の「農民文学賞」「文学界新人賞」三十三年の「群像新人文学賞」「女流新人賞」,三十四年の「文藝賞」「田村俊子賞」三十五年の「新日本文学賞」三十六年の「オール読物推理小説新人賞」三十八年の「小説現代新人賞」「吉川英治文学賞」四十年の「太宰治賞」「谷崎潤一郎賞」「長谷川伸賞」「マドモアゼル女流短編新人賞」そして,四十一年以降後親切のもので「円卓賞」となっていた.むろんこの他に児童文学賞や京都だけの吉井勇賞など,そして新しい「河出文化賞」や「菊池寛賞」等もあるが,「朝日賞」や「毎日芸術賞」同様,後者はその一部に文学を含むものに過ぎない.*4

ここにあげられたのは,作中登場人物がメモしていたノートに記載された賞に限っている.地域文学賞みたいなものや小さいものも含めると数え切れないくらいあるだろう.



■雑記
芥川賞にとりつかれた左傾教員が,病身の妹を看病しつつ琵琶湖地方で同人誌と関わり文学修行をする話.話自体はフィクションなのだろうが,文学者や芥川賞にまつわる話題は事実に取材しているようだ.この本の内容はとりたてて目を引くものではなく,むしろ著者の人となりや経歴の方に興味をひかれた.文学を志すものは皆東京に言ってしまうという批判めいた言辞が本書には幾度か出てくるのだが,このような文学者(志望者)と一線を画して地方に留まり後進を指導した真下さんはの経歴や哲学はどのようなものだったのだろうか.


■著者略歴
明治39年5月5日、京都府丹後峰山町に生まれる。明治大学在学中から執筆活動に入る。昭和十年代、舟橋聖一を軸に、評論の野口富士夫、福田恒存、小説の豊田三郎桜田常久、高木卓、児童文学の坪田譲治らすでに各界で活躍の中堅メンバー等と行動文学運動をはじめ、意欲的に文芸活動を展開。『若草』『作家精神』『行動文学』『三田文学』『文学界』等を舞台に作品を次々に発表。特に京都の旧弊・因習に真正面から向き合った短編『暖簾』『仏間会議』は問題作として注目され、芥川賞候補にもなった。戦前・戦後を通じ、六十近くに及ぶ単行本のほか、長編新聞連載も十数作、さらに十余の長編雑誌連載など、膨大な作品を残した。『京ことば事典』は文献としても貴重なものになっているが、真下の「京ことば保存」に傾けた情熱とその仕事は特筆に値する。長編小説『京都の人』(講談社)は会話部分はもとより全編を京ことばの会話体で尽くした異色の作品。京ことばの滅び行く様を看過できないという真下の思いは晩年にかけて一層募り、各界に保存の大切さを訴える一方、生の音声で京ことばを残すという事業には自らも乗り出し、LPレコード化してこれを実現した。第一回・京都文化功労者。京都文化団体懇話会・初代会長。昭和53年3月23日、自宅で七十二年の生涯を閉じた(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです) *5

永井龍男(他),1979,「芥川賞の研究―芥川賞のウラオモテ」(みき書房・東京)

目次
1.芥川賞の歴史と背景―芥川賞のウラオモテ―
(略)
2.芥川賞と私―受賞作家十八人の肉声―
(略)
3.芥川賞の現在―受賞の隘路を衝く―
(略)

永井龍男佐佐木茂索との対談.佐佐木の発言

佐佐木(強調原文)(前略)或る種の匿名批評家は「宣伝もあるだろうけれども」といっているが,菊池寛もそれは宣伝だといっているんでね.しかし今日では,はっきり公的なもので,商業政策上,無理に新人作家を作り出したいとはだれも考えていない.これはひじょうにいいことだと思いますね./永井(強調原文)たしかに公的なものになってきたし,社会的な大きなトピックにもなってきましたね.*1

二人の発言は1959年当時.ちなみに石原慎太郎太陽の季節」は1955年発表で同年第1回文学界新人賞・翌年第34回芥川賞である.1957年(第38回芥川賞)には大江「死者の奢り」VS開高健「裸の王様」バトル.「公的」と永井は言っているが,このときに編集者や春秋側の銓衡過程への介入は大きくなかったのか?


芥川賞がなぜ権威となりえたかについて.橋爪健の論.

なぜ芥川賞がこんなにも強力な権威をもつようになったか.その第一は,いわゆる“大御所”として企業にも文壇を制覇していた菊池寛主宰の〈文藝春秋〉の威力である.第二には,それまで文壇の檜舞台だった〈改造〉や〈中央公論〉が,懸賞小説を募集して新人を発掘しながら,その入選者の育成におろそかだったのに対して,文藝春秋社がその弊を見ぬいて,あくまで芥川賞作家を庇護し,しぜんと自陣を賑わした商策の成功である./しかも第三に,最初から太宰治の落選事件などが起き,芥川賞の出現がいろいろな意味で問題になったこと,さらにそのときの入選者石川達三などのその後のめざましい躍進のために,改造などの懸賞小説にとって代って大いに文壇やジャーナリズムの注目を集めたことなどが考えられる.そのため改造では,まもなく懸賞小説の募集をやめてしまった.*2

のだそうだ.検証する必要はあるけれどそうだろうなという指摘.


文藝春秋の発展について

文藝春秋が,芥川,久米,直木三十五など友人の協力や,若い者たちの奮励で意外な発展を見せ,今や中央公論,改造などを凌駕する,五百ページに近い新総合雑誌となって,文壇ジャーナリズムの主座を占めた.とくに流行作家と新進作家とが文壇ギルド的にはじめた同人雑誌が,商売雑誌的に変貌していっただけに,文壇と企業とが緊密に結びついて,他誌には見られない異常な文壇勢力を勝ちえたのだ.*3


日本文学振興会設立

火野葦平の劇的入賞によって一だんとクローズアップされた芥川賞は,その直後,一応文藝春秋社とはなれた形で設立された財団法人〈日本文学振興会〉によってまかなわれることになった.私的な一営利会社の宣伝行事と見られがちなこの賞に,公的な性格を与えようとしたものだ.しかし,その財源は文藝春秋社の寄付に頼っているし,理事長菊池寛以下,理事も監事も全部,芥川,直木両賞の選考委員と文藝春秋社員とからなっているところを見れば,ただ看板をぬりかえただけで,中味は同じようなものだ.*4


芥川賞の転機.戦後すぐのことである.

芥川賞復活―まず選考委員が改新された.佐藤,宇野,瀧井,川端,岸田の旧委員に,新しく丹羽文雄舟橋聖一坂口安吾石川達三の四人の流行作家を加え,副賞も五万円となって,昭和二十四年上期から発足することになった./なにしろ久しぶりの芥川賞であり,委員も半分若くなったので,新旧委員の呼吸がぴったり合わなかった.旧委員が私小説的な芸術性を重んずるのに比べて,新委員は戦後ジャーナリズムの要求する大衆性を,その芸術性に加えようとする傾向が強かった./その上,進行係をつとめる者が,もちろん商業主義に立つ編集方針からだろうが,選考委員たちの意見を牽制し,入賞をリードするような傾向が出てきた.このことは,いつも無遠慮なしつこい選後評をかくので名物となった宇野浩二が,「第十六回ぐらいまでは選考委員の意見が八分通り通ったが」戦後は「文藝春秋文藝春秋新社の代表をかねているのではないかと憶測されるような芥川賞係の人の希望が五分半か六分ぐら入れられるようになった」と書き,佐藤春夫も,「あまり編集部が強硬に主張されるのは(もしそういう事実がありとすれば)ご遠慮願います」と書いているのでも分かる.*5

変化その一,選考委員の一新による価値観の相違.変化その二,文藝春秋社およびその編集部の主張が選考に入ってくる.


直木と芥川賞との混交.昭和12年ですでに.

第二十八回(昭和27年下半期のこと―引用者注)には,〈或る「小倉日記」伝〉の松本清張,〈喪神〉の五味康祐という,数千万の年収をほこる巨大な流行作家を生みだした.この両作は,むしろ直木賞に価*6するもので,芥川賞直木賞との混淆が見られる./かつて昭和二十年,純文学作家井伏鱒二が〈ジョン万次郎漂流記〉で直木賞に入選したとき,井伏がはたして受けるかどうかと心配されたが,井伏はちょうど集金旅行の帰りだったのか,「欣快の至りです」と大きく出て五百円もらった.そのとき菊池寛は「直木賞も井伏君をえて,新生命を開きえたと思う,云々」と書き,久米正雄も,「純文学として書かれたものだが,このくらいの名文は当然大衆文学の世界に持ちこまれなくてはならぬ」として,「吾々は将来もっとこうした切りこみを遠慮なく目論むから,純文学の名に囚われてマゴマゴしている作家たちは,警戒待望,いずれなりとするがよろしい」と書いた.このときからすでに文藝春秋社による純文学と大衆文芸とのかきまぜは始まっていたのだ.純文学の風俗小説化を主唱した横光利一の〈純粋小説論〉(昭和十年―原文)なども,その支えになっていた.それが昭和三十年代の巨怪なマス・コミの発展によって,ますますその傾向を強めてきた./「芥川賞は今更いうまでもなく,いわゆる純文学のために設けられたものである.されば,右の有様であれば,芥川賞の『敗北』ということになるのである」という宇野浩二の正論などは,今やジェット・エンジンに吹きとばされる木の葉みたいになってしまった.*7


遠藤周作開高健の対談.芥川賞を知らなかった遠藤

遠藤 きみ,芥川賞を貰う前に,芥川賞,知っとった?
開高 あたりまえでしょう.
遠藤 いつ頃,知っとった?
開高 子供の頃から知っておったですよ.
遠藤 情けないことだが,僕は堀田さんが貰うまで,芥川賞って知らなんだよ.
開高 ほんとかい,オイ.
遠藤 ほんとだ.戦後派作家が書き出した頃,学生だったからね,あまり知らなかったんですよ.
開高 ほんとかね.
遠藤 ほんと.芥川賞って,そんなに有名じゃなかったんだよ,おれの頃.きみ,ほんとうに子供の頃から知っとったのかね.
開高 知ってますよ.石川さんが貰ったのが昭和十三年頃でしょう.明治大正昭和文学全集ようなものを,ぼくは愛読していましたからね.*8

思わず爆笑してしまったのは今の感覚なんだろうか.遠藤(1923年3月27日)は東京府生まれだし,父は東京帝大独法科卒の銀行員,母は東京音楽学校ヴァイオリン科在学してたし,文化的にいえば当時としてはすごく恵まれておった部類に入るだろう(満州に行ったり両親の離婚があったりはしたけれども).で,遠藤が芥川賞の存在を知った堀田の受賞は第26回(1951年下半期)である.このとき遠藤28歳でちょうどフランス留学していたとき.フランス滞在中に芥川賞の報が入ったのか?


■雑記
銓衡委員や受賞者,あるいはその両方を経験したものの立場から芥川賞にまつわるエピソードが豊富で面白い.文芸誌や新聞に掲載されたエッセイ,対談,インタビューといった雑文を一冊の本としてまとめていて便利.おさえられている時期は79年あたりまでの事情である.それにしても開高と遠藤の対談で,遠藤が「芥川賞知らない」発言したのに対し,開高が「マジでマジで?」と繰り返し確かめる情景がものすごくわらけた.

*1:p.18

*2:p.45

*3:pp.46‐7

*4:p.70

*5:pp.98‐9

*6:原文ママ

*7:p.118

*8:pp.169‐170

佐高信,2004,『城山三郎の昭和』(角川書店・東京)

目次は略

城山の作家になる原体験

評論家の伊藤肇を司会とし,山崎豊子,秋元秀雄,三鬼陽之助,それに城山というメンバーをそろえた座談会「事実は小説よりも奇なり」(『財界』一九七三年五月一五日号,六月一日号掲載)で,城山は,/「作家になろうと思ったのは,われわれの世代は戦争でひどい目にあってきたでしょう.軍隊という組織悪の標本みたいなものを身にしみて体験してきたから,そういうものを書きとめ,書くことによって復讐したいという気がある./それと同時に,いま日本は経済大国となり,すぐれた経済社会を作り上げていますが,日本の小説は,どうも,そういう経済社会の外で書かれているような気がするんです.小説が人間の生きかたを問うものであるとすれば,この経済界でどう生きるか,また,どういうかかわりあいかたをしていくかということは,非常に大きな問題なのに,どうも,それらをはずれたところで小説が書かれていることに対する一種の不満があった」/と執筆の動機を語っている.*1

伊藤肇と城山とは友達.本書中にも,「城山三郎を「絶対に形の崩れない男」と評したのは,互いに心許し合った友達だった伊藤肇である.安岡正篤に師事し,人物評論家として健筆を揮った伊藤とは思想的立場とか,いろいろ違いはあった.しかし,ほぼ同い年の友として城山は親しいつきあいを続けたのである*2」とある.


大岡昇平への傾倒

『風の中の背広の男』という仮題を『落日燃ゆ』に変えるよう提案したのは新潮社の編集者の梅澤英樹だった.大岡昇平の担当者でもあった梅澤が,二人の絆をさらに深める触媒となった*3

直木賞受賞作『総会屋錦城』に関連して

錦城にはモデルがいた.しかし,すでに亡くなっていたので,やはり,風格のある総会屋だった久保祐三郎などに会った.久保も故人となったが,久保は宮沢賢治の「雨ニモ負ケズ」をもじった「総会屋のうた」をつくっている.

雨ニモマケズ/風ニモマケズ/インフレニモ/デフレノ嵐ニモマケナイ/殺シテモ滅多ニ死ナヌ体ヲモチ/慾ハナイガ銭ハホシク/貫禄ハナイクセニ/ハッタリハアッテ イツモ天下ヲ論ジテイル/一日ニ合成酒二合半ト/新生ト三バイノ麦飯ヲクライ/アラユルコトヲ/自分ヲ勘定ニ入レテ/ヨクミキキシ ワカリ/ソシテ忘レズ/大都会ノビルノ谷間ノ/陽ノ当タラヌ場所ニイテ/盆暮二回ノ新聞ヲ出シ/東二株主総会アレバ/行ッテガタガタ一席ヤリ/西ニ増資ノ会社アレバ/行ッテ ソノ無償ヲ請イ/南ニフエル課長アレバ/恐ガラナクテモイイトイイ/北ニ喧嘩ヲ売ル重役アレバ/アンタガタ損ダカラ ヤメロトイウ/景気ガイイ時ハ遊ビ/不景気ノ時モ食エテ/所得税モ区民税モ払ワナイ/ミンナニ浪人ト呼バレ/賞メラレモセズ/馬鹿ニモサレズ/ソウイウモノニ/ワタシハナリタイ*4

旧制高校的なるものと城山三郎.佐高と城山との対談.

佐高(強調部は原文ゴシック以下同様) この本(『運を天に任すなんて』)で興味深かったのは,「寮歌嫌い」のところです.中山さんも城山さんも寮歌祭のような催しには一度も行ったことがない,と.
城山 僕も寮歌祭には何回出ろと言われても絶対いやでね.地方へ行っても同窓会なんかがあって,終わったら寮歌を歌ったりするけど,それだけは勘弁してくれと言う.その代わり,本にサインしたりということならするけど.
佐高 これも箱嫌いの一環ですね.
城山 あれは旧制高校という箱だから.
佐高 旧制高校の弊衣破帽や,いまだに自分たちはエリートで,何をやっても許されるんだという意識.旧制高校の雰囲気の裏に,例の一高の「栄華の巷低く見て……」みたいなものが感じられるから
城山 ほとんどの寮歌は全部そうでしょう.みんな他を低く見ているわけですよ.
佐高 俺たちは特別なんだというエリート意識ですね.
城山 それが,エリートだからこうしなければいかんとか,真っ先に知らなければいかんとかいうことと直結すればいいけれど,そういうものはなくて,ただ優越意識だけが残っている.だから中山さんもいやなんだろうね.
佐高 特権階級の闇切符みたいなものですか.
城山 何もしなくてもいい.ただそこにぶら下がっていればいい,ということになるから.だけど「寮歌嫌い」の話は,きっと今のリーダーたちにとってはショックだよ.
佐高 だと思いますね.急所は「勲章もらわざる弁」と「寮歌嫌い」ですね.*5

城山の旧制高校嫌いがあらわれる一節.城山自身正統エリートコースを歩んだわけではなかったから,そういう立ち位置込みの視点からの発言である.

佐高から見た城山のポジション

吉村昭との対談で城山は,梶井基次郎が好きで「夏目漱石のよさがわからない」ところが自分たちは似ている,と語っている./そんな前提を置いた上で,私(佐高―引用者注)が『夕刊フジ』の連載の最後に書いた「経済小説はなぜ読まれるか」を引こう./(一行アキ―引用者注)/「漱石は金が欲しくて書いた作品が,今から思ふと一番良いと言つたといふ.このやうな逆説も口にすれば今なほ汚くなるのは止むを得ないが,日本文学もいよいよ金銭のことを書かねば近代小説とは言ひ難くなった」/“小説の神様”と言われた横光利一は,昭和十年に発表した『家族会議』の「作者自身の言葉」にこう書いた.そして,「ヨーロッパの知性とは金銭を見詰めてしまった後の知性」であるのに,「日本の知識階級の知性は利息の計算を知らぬ知性である」と喝破した./株の世界を扱ったこの作品は,その意図に反して成功した試みとは言い難いが,確かに横光の指摘する通りだろう./学者や芸術家のような,漱石の言う“道楽的職業”は別として,製造業にもサービス業にしても,ビジネスは普通,他人のためにモノを造ったり売ったりする「他人本位」の仕事である.そして否応なくビジネスマンは金銭を見詰めさせられる.しかし,横光の鋭い指摘の後も,日本の小説の世界には,作家が自分の私生活を描く私小説に代表されるように,「自己本位」の道楽的職業生活者しか登場しなかった./道楽的職業でないビジネスは,他人のためにモノを造ったり売ったりするのだから,どうしても「自己を曲げる」ということが出てくる.そして,「会社」という組織の中で虫の好かない奴とも協力して仕事をやらなければならない現代のビジネスマンは,二重に自己を曲げざるをえない./しかし,こうした屈折を,これまでの,いわゆる純文学作家は完全に見落としていた.「売れないのが純文学で,売れるのが大衆文学か」と梶山季之は皮肉ったそうだが,いわゆる純文学は“他人本位の屈折”を経たことのない作家たちのギルド的文壇文学だったのである./もちろん,金銭に背を向け,反俗的姿勢をとることによって,鋭く「現実」を批判したいくつかの純文学作品の功績を否定するつもりはない.ただ,醜悪な現実に背を向けて,ひたすら自己の内面を掘り下げる態度がマンネリ化し,いわばラッキョウの皮むきに似た作業になったとは言えるだろう.多くの作品が「社会」から離れ,「現実」を映すことがなくなってしまったのである./そこに,現実のビジネス社会を反映した経済小説が流行する素地があった./昭和三十二年に「輸出」で『文學界』新人賞を受け,経済小説のパイオニアとなった城山三郎は,当時,/「日本の小説は,どうも,経済社会の外で書かれているような気がするんです.小説が人間の生きかたを問うものであるとすれば,この経済界でどう生きるか,また,どういう関わりあいかたをしていくかということは,非常に大きな問題であるはずなのに,それらをはずれたところで小説が書かれていることに対する不満がありました」/と述べている.*6

城山と皇太子と上原専禄一橋学長(当時)

戦後まもなく,城山は一橋大学の学園祭に来た皇太子(現天皇)を見た.「供一人連れただけの少年皇太子の清純な像は,私の心に切迫した親愛感を与えた」という./この時,学生たちの中には「何のいわれもないのに」と来校拒否の動きをする人たちもおり,それに反発する学生もいて,不穏な空気が漂った./しかし,当時の学長,上原専禄の「何のいわれもなければ,学園が解放される一日,とくに皇太子に限って来校を拒むのはおかしい」という一言で収まった./「前屈みの長身に白髪が美しかった」上原は,平和運動の担い手でもあり,「左右両派を納得させる」雰囲気を備えていた.*7

上原専禄は,旧制愛媛県立松山中学校→1922年東京高等商業学校(現・一橋大学)専攻部経済学科卒→東京商科大学(現・一橋大学)研究科入学→ウィーン大学留学→1926年高岡高等商業学校(現・富山大学)教授→1928年東京商科大学教授.1946年高瀬荘太郎の後を継ぎ東京産業大学(現・一橋大学)学長に就任.学長在任中は社会科学を総合的に扱う社会学部の設立に尽力.1949年一橋大学社会学部教授就任.


■著者略歴(本書より)
1945年山形県生まれ.慶應義塾大学法学部卒業.高校教師,経済雑誌編集長を経て,現在,評論家として活躍中.高杉良姜尚中福島みずほなどと共著あり.

■雑記
経済小説の草分けとして知られる城山三郎であるが,その作品の原点には自身の戦争体験があるとの指摘には目を開かされた.それ以外にも,小説家集団の中での城山の経歴とポジショニングを垣間見られてよかった(「三島由紀夫批判」など).

■資料
佐高信『文学で社会を読む』(岩波現代文庫).
藤島泰輔『孤獨の人』(読売新聞社).「扉に「心からなる敬意と友情をもってこの書をクラスメート皇太子殿下に捧ぐ」とあるように,これは現天皇学習院時代の“御学友”である藤島が一九五六年に発表した作品で,藤島は「あとがき」に「ぼくはこの作品が題材だけの興味でよまれ,評価されることを最も恐れている」と書いたが,『朝日新聞』が社会面のトップで,/「皇太子に青春を……」/と報じ,センセーションを巻き起こした.学習院の先輩の三島由紀夫は序文で,この『孤獨の人』は「存在論的孤獨の人なのではなく,ただ制度によつて孤獨なのである」から,「この少年の孤獨をただ人間的に救濟するといふ企ては,はじめから矛盾を含んでゐる」と書いている.*8

*1:p.45

*2:p.61

*3:p.60

*4:pp.76‐8

*5:pp.154‐5

*6:pp.193‐5

*7:p.240

*8:p.243

猪瀬直樹,2007,『作家の誕生』,(朝日新書・朝日新聞社・東京)

第1章 投稿という新しいネットワーク
第2章 スキャンダルとメディア
第3章 サラリーマンとフリーランサー
第4章 一発屋の登場と「文藝春秋」の創刊
第5章 文学青年二万人と市場の拡大
第6章 イメージリーダーの交代
第7章 事件を起こす,素材を集める
第8章 センセーショナルな死
第9章 自己演出の極限を目指す

漱石朝日新聞小説記者という肩書き

夏目漱石朝日新聞社員として小説を連載しはじめるのは,明治四十年である,/朝日新聞は大阪が起源である.明治十二年に創刊され,東京へ進出するのは明治二十一年になる.自由党機関紙めざまし新聞を買収して東京朝日新聞とした.翌年,大阪の朝日新聞の題字を大阪朝日新聞と改めた.経営者は同じだが,別会社の形をとっていた.このとき大阪の発行部数は四万部,東京は一万部程度だった./新聞購読の習慣が定着するようになると部数も伸びてくる.連載小説が人気を博するようにもなる.夏目漱石が入社した明治四十年には大阪朝日は十四万部,東京朝日も八万部に伸びて赤字経営から脱しかけていた./(中略―引用者)/漱石は,教師を辞めて作家専業では食えない,と思っている.明治末のメディアのマーケットはまだ小さい.そこで朝日新聞小説記者とする,つまり社員である,と説明して,年に一度,百回ほどの長篇小説を書くことが主な条件で月給二百円を提示し,ほかに盆暮の賞与を約束した.漱石帝国大学講師として得ていた年俸は八百円,一高講師として七百円,したがって収入は二倍に増える(一千五百万円が三千万円に増額されたぐらいの感じ).*1

文壇と文士.サークル,サロン,マーケット

(大正八年すぎと思われる―引用者注)文壇と滝田の『中央公論』は同心円のように重なり合っていった.有力な雑誌に場所を得るか否かで作家としての名声は決まる.その頂点に総合誌の『中央公論』が鎮座した.投稿誌の王者『文章世界』も新興勢力の文芸誌『新潮』もすでに『中央公論』には及ばないのである./文士たちが集まれば,そこはとりあえずは文壇と呼ばれた.早くは尾崎紅葉硯友社,つぎは夏目漱石漱石山房,いずれも弟子たちが慕って集まった.仲間褒めと仲間批判が展開された.そのころの文壇は一種のサロンであってマーケットではない.直接,仕事にリンクしたわけではない.明治時代のぶんだんはその程度である.だが滝田と『中央公論』に認知されることは,マーケットでの生存の証明となった.そこいらのサロンにたむろしている文士志望者の評判と作品に,鼻をくんくんさせながら近づくのが滝田である.彼にスカウトされ,つまり人力車が横付けになり,『中央公論』に作品が掲載されれば,自動的に他の雑誌からの注文が殺到する.すなわち文壇の一員を意味した.少なくとも大正時代の半ばにはそうなっていた.*2

文壇=マーケットという言い方は,今の文壇をあらわすにしろ語弊がないか?文壇というと作家の集団か作家の世界かを現すようなイメージだけど,マーケットというと,作家自身を含めた出版業界や読者たちまでもを含むものだろうから.あと,この指摘自体(明治にはマーケットとして成り立ってない)も要検証.

菊池寛の経歴

高松中学での成績は良かった.高等学校へ進みたかったが仕送りのあてがない.実際,長兄が高松師範を出て教職に就いて父親の代わりになった.東京高等師範に入学するが一年で除籍,明治大学の法科には三ヶ月,そんな紆余曲折を経て一高に入った.一高も退学して結局,京都帝大を卒業,東京に戻ってきたのは二十七歳,就職口は見つからない.篤志家の世話で時事新報に就職した.対称五年である.『中央公論』十月号に芥川の「手巾」が掲載されたのを横目で睨みながら,巷間を走り回る社会部記者生活をはじめた.月給二十五円,手当て四円である.その間にこつこつと原稿を書いて同人誌に発表していた./大正七年,初夏.時事新報の仕事を終えて帰宅すると,牛込区南榎町の路地裏の男便所も付いていない家賃九円五十銭の粗末な家の前に,自家用の人力車が停まっていた.菊池寛は,直感的に理解した./「ついに,あの滝田の人力車が来た」*3

菊池寛と小説家協会設立

菊池は前年六月に小説家協会の創設を試みている.創立総会に提出された「趣意書」には「我々の生活を少しでも安定させたいために,一種の職業組合,共済組合を作る」と目的が述べられている.菊池のほかに芥川と久米正雄ら十数人が発起人に名を連ねた./鷗外は陸軍医,漱石朝日新聞小説社員として固定給を得た.菊池や芥川や久米の時代になると雑誌の原稿料を糧とする作家,島清や賀川のようにベストセラーで巨額の印税を手にする書き手が現れた.だが生活はマーケットの波間に浮き沈みし不安定だった./菊池は考えた.「会員及びその家族疾病の場合は一ヶ月三十円以上百円までの補助をなすことあるべし」「会員志望の場合は弔慰金として金二千円を贈与す」という規定があれば,病気になっても大丈夫だ.財源は「会員が著作を単行本として発表死たる場合は,印税の百分の一を二分し,各その一分を会員と出版業者の双方より,本会に寄付」させればよい.会員資格は「著名なる文芸誌ないし新聞に五篇以上の小説を発表したることのある者」「小説の単行本を二冊以上発行したる者」とした./ところが社会主義思想にかぶれ,貧しい人々を救え,と呼号する勢力が文壇で注目を集め始めた時期で,有力作家しか会員になれない制度と曲解し,菊池を「成金思想に浸り切っている」と批判する.これも菊池が,新思想の偽善性に嫌気がさした一因であった.*4

井伏鱒二と文学青年

一九八九年生まれの井伏鱒二も福山から上京した.井伏は『荻窪風土記』で大正末年の東京の青年たちの姿を,こんなふうに評している./「当時,東京には文士志望の文学青年が二万人,釣師が二十万人いると査定した人がいたそうだが,文学青年の殆どみんな,一日も早く自分の作品も認めてもらいたいと思っていた筈である.早く認められなくては,必ず始末の悪い問題が起こって来る.私も早く認めてもらいたいと思っていた」/大正十二年,井伏鱒二は二五歳,早稲田大学仏文科を中退した翌年,収入のあてもない.*5

作家になる仕方に迷うはざかいの太宰.とりあえず大学にいる.

作家になりたい,芥川龍之介のような作家になりたい,いやいまは小林多喜二プロレタリア文学だ,と津島修治は迷った.迷いながら自分の資質や体験が小林多喜二と似て非なるものであることに心の隅では気づいている.気づいていても,作家になるためには手段を選んでいられない.プロレタリア文学が流行であっても,谷崎潤一郎永井荷風も気取ってみたい.とりあえず東京帝国大学に在学したままデビューの機会をうかがうのである.*6

ウッドビー作家の太宰.同人誌でいろいろ活躍してたり山本実彦に直接原稿を持ち込んだりしている頃.大学にいるというのはとりあえずの身分確保ということなのか.学生であれば作家になれなかったとしても就職するていう道は残るわけやしね.上の文章は猪瀬さんの推測もふんだんに入っているはずであるし.

太宰と芥川賞

(太宰の―引用者注)三度目の自殺未遂は昭和十年三月である.二十六歳になっても卒業の目途が立っていない./『文藝春秋』一月号に「芥川・直木賞宣言」が載った.賞金は五百円と記されている.そればかりでなく受賞者には「芥川賞委員」「直木賞委員」が「広く各新聞雑誌へ引続き作品紹介の労をとる」とあった.賞金はたいしたことないが,それでも約半年分の仕送りにあたる.芥川賞委員には,菊池寛久米正雄山本有三佐藤春夫谷崎潤一郎室生犀星小島政二郎佐佐木茂索瀧井孝作横光利一川端康成の名があった.彼らが作品紹介の労をとってくれるなら,こんな近道はない./修治は伊馬春部に,どこか発表する場を探してくれ,と懇願した./(中略―引用者)/伊馬春部はうなずいて改造社の『文藝』なら新人の短いものも載せるのでなんとかなりそうだ,と答えた.「逆行」は『文藝』二月号に載った.太宰治というペンネームが始めて商業雑誌に載った.*7

第1回芥川賞落選の太宰と友人山岸外史

山岸が落選見舞いに行き,慰めると喰ってかかった./「山岸君だって,もっと佐藤さん(佐藤春夫―引用者注)に売り込んでくれたらよかったのだ.これ以上の傑作はない,絶対に保証すると言ってくれたら……」/山岸は,いい加減にうんざりした./「佐藤さんは努力したんだ.君の作品を推したのは佐藤さんだけなんだぜ.佐藤さんのせいにしてはいけないよ」/太宰はそれでも承知しない./「石川達三のどこが偉いんだ.俺のほうがずっと……」/「君のは文壇への執念であって,文学への執念じゃない.君は落選したほうがよかったんだ」/山岸がつい口走ってしまった言葉は正鵠を射ていた.太宰は作品を発表したかった.それは作家として世に出て芥川のようなスタアになることと不可分でもあった.書くだけでは仕方ない,名声を得ること,二万人の文学青年のひとりとしての不確かな自分に実在感をもたらすのはメディアなのだ,と本能的に見通していた.*8


■雑記
目のつけどころは面白い.「売れなければ作家でないのか.売れたら作家なのか.太宰治芥川龍之介の写真をカッコイイと思った.文章だけでなく見た目も真似た.投稿少年だった川端康成大宅壮一,文豪夏目漱石の機転,菊池寛の才覚.自己演出の極限を目指した三島由紀夫,その壮絶な死とは*9」.だけれど後半部分はその着眼点をほったらかしにして,ただの太宰伝記,三島伝記に終わってしまった感があり残念.それに冒頭の問題意識(売れなければ…)は,三島の死によって終わるわけではなくって,今現在も続く問題ではなかろうか,とも思う.

*1:pp.54−5

*2:pp.61−2

*3:pp.70−1

*4:p.80

*5:p.101

*6:p.144

*7:pp.153−4

*8:pp.166−7

*9:カバー折込部分.強調部分は原文大フォント

池谷裕二,2007,『進化しすぎた脳 中高生と語る[大脳生理学]の最前線』(ブルーバックス・講談社・東京)

第一章 人間は脳の力をつかいこなせていない
第二章 人間は脳の解釈から逃れられない
第三章 人間はあいまいな記憶しかもてない
第四章 人間は進化のプロセスを進化させる
第五章 僕たちはなぜ脳科学を研究するのか

身体の各部分とその部分をつかさどる脳の部位との対応について

「脳の地図」(図12,47ページ)は,じつはかなりの部分で後天的なものだってことだね.言ってみれば,脳の地図は脳が決めているのではないて体が決めている(原文ルビによる強調―引用者),というわけだ./さらに訊くけど,指が4本の人が生まれた後に分離手術して,その結果,5本の指が自由になった.そしたら脳はどうなると思う?/→同じ動きをするようになる./分離されても2本の指は,同じ動きをする.そう,多くの人がそう思ったんだ.でも,ちゃんと5本の指が別々に使えるようになった.そして脳を調べてみたら,わずか一週間後にはもう5本目の指に対応する場所ができてたんだ./これもまた深い意味を持っていて,脳というのは一回地図ができ上がったら,それでもう一切変わらないという堅い構造ではなくて,入ってくる情報に応じて臨機応変にダイナミックに進化しうるんだ.*1

身体という乗り物に対して,脳は臨機応変

進化しすぎた脳.リミッターは体

人が成長していくときに,脳そのものよりも,脳が乗る体の構造とその周囲の環境が重要なんだね(原文ルビによる強調―引用者).日本人だって英語圏で育てば英語を話せるわけで./(中略―引用者)/ということは,脳というのは進化に最小限必要な程度の進化を遂げたのではなく,過剰に進化してしまった,と言えるのではないか.進化の教科書を読むと,環境に合わせて動物は進化してきた,と書いてあるけど,これはあくまでも体の話.脳に関しては,環境に適応する以上に進化してしまっていて,それゆえに,全能力は使いこなされていない,と僕は考えている.能力のリミッターは脳ではなく体というわけだ.*2

脳と時間

人間の脳にとっての時間は,決して連続した物理量ではなくて,数十ミリ秒おきにコマ送り,つまり量子的になっているんだな.それが無意識の作用,つまり脳の働きによってスムーズにつながって見えるだけ.さっきの動きの錯覚を見てもそうでしょ.*3

意識

「意識」の典型が「言葉」.まさしく典型なんだ.言葉は表現を選択できる.短期記憶もある.これがないとミカンとトカゲはわからない.それから可塑性がある.子どもは新しい言葉を覚えていったりするでしょ.みんなだって学校の授業で新しい言葉を習ったら,それを使ってみようかなって意識してつかえるようになる(原文ルビによる強調―引用者)./選択肢の幅が広がる.そうやって学習できる,記憶できる.これら3つの特徴がすべて言葉には備わっているから,言葉というのはまさに「意識」的なんだね./1−表現の選択/2−ワーキングメモリ(短期記憶)/3−可塑性(過去の記憶)/いいかな.僕にとって「意識」の最低条件はこの3つってわけだ.*4

記憶とあいまいさ

記憶があいまいであることは応用という観点から重要なポイント.人間の脳では記憶はほかの動物に例を見ないほどあいまいでいい加減なんだけど,それこそが人間の臨機応変な適応力の源にもなっているわけだ./そのあいまい性を確保するために,脳はなにをしているかというと,ものごとをゆっくり学習するようにしているんだよね(原文ルビによる強調―引用者).学習の速度がある程度遅いというのが重要なの,特徴を抽出するために./→いろんなものを見て,その共通している特徴を……?/そうそう.そのためには学習のスピードがあまりにも速いと,特徴を抽出できない.たとえば,きみらが池谷という人間を記憶する過程を考えてみようかな.いま僕は正面に向いてたっているでしょ.その姿だけを見て「これが池谷」というのを写真のように覚えちゃったとするでしょ.そうすると,次に僕が右を向いたら,その姿は別人になっちゃうよね.そこで,「右を向いた姿こそが池谷だ」と,もう一回完璧に覚え直してもらったら,こんどは右向きの姿だけが池谷になっちゃって,正面姿は違う人になっちゃうでしょ.*5

想像力・創造力と記憶のあいまいさ

コンピュータの記憶はいつも正確に,ピシっピシッと整理された棚に置かれるみたいにハードディスクに蓄えられていくでしょ.ああいうのって記憶が相互作用しないから,いつでも完璧に取り出せはするんだけれども,コンピュータにソウゾウ性が欠如しているのは,あいまいな記憶がないからだとも言える.つまり記憶が正確すぎるということ./その観点からいくと,人の記憶は変わるかもしれない.でも,記憶が「あいまいだ」ということは,記憶が「減っていく」のとはイコールじゃないんだ(原文ルビによる強調―引用者).それは意味が違う.あいまいだからといって記憶が消えてなくなっちゃうわけじゃない.*6

全体の講義の総括

初日.脳というのは昨日が局在化しているという話をしたね.肺とか肝臓みたいに,すべての場所がすべて同じ役割をしているんじゃなくて,脳はある部位はこれ,ある部位はそれと専門化しているという話をした.専門化しているからこそ,ラジコン・ネズミみたいなのが可能になったりもするわけ./そして動物の脳をいろいろと比較してみて,人間の脳というのはどうやら必要以上に進化しちゃっている,過剰進化しているという話も出てきた.動物の種によっては,脳をうまく使いこなせていないんじゃないかというような話になった./なぜ使いこなせていないかと考えをめぐらせて,体が大切だという結論にたどり着いたね.体が脳を決めている.脳の機能は,体があって生まれるという話だった./従来は,脳は体を支配する,体をコントロールするための総司令部だと考えられていたけれども,そうではなくて,むしろ体が脳を主体的にコントロールしている.逆の発想―パラダイム・シフトが生まれた.もちろん脳は体をコントロールしてるよ.それと同時に,体も脳をコントロールしている.だから脳と体を分けてはいけないっていうわけだ.脳と体は別だと言う人もいるけど,そんなことはない,分けることができない,という話だね./人間の体を少しづつ機械に変えていったら(たとえば義手とかね),どこまで体を機械に変えたら自分が自分じゃなくなるか,という話もしたね.心を保ったまま脳までも変えたらどうか?もちろん変えた瞬間は自分かもしれないけれども,その後,脳が自在に再編成できなくなっちゃうでしょ.体から脳への還元がないからね.そういう意味で「アンドロイド=人間」という概念は体の重要性を忘れている./「心」というのは脳が生み出している.つまり,脳がなければ「心」はない.でも,体がなければ脳はないわけだから,結局は,体と心は密接に関係していることがわかる./そのポイントとして,2日目の講義で,僕は「言葉」を挙げた.人間は声を自由に操るがゆえに,言葉をしゃべれるように脳が再編成されて,いま僕たちは言葉を自由に操っている./これはとても大きな影響を脳に与えた.なぜかというと,言葉というのはコミュニケーションの手段としてあるだけじゃなくて,つまり,信号としてあるだけじゃなくて,人間が抽象的な物事を考えるのに必要なツールになったんだ,そういう話をしたね.つまり,意識とか…….「クオリア」という言葉を覚えてるかな,覚醒感覚ね.ああいった抽象性,いわゆる「心」を生み出すのは「言葉」である,という話になった.極限すれば心は咽頭がつくったとも言えるんだ(原文ルビによる強調―引用者).そこから,さまざまな人間の行動に考えをめぐらせた.そして「見る」という,普段何気なくやっている日常的な行動に目を向けた.たぶんこれまできみらは,自分から積極的に見たいものを見ているだろうと思ってたかもしれない.見るというのは能動的な行為だと思っていたかもしれない.でも,盲点や錯覚などの実験を通じて,「見る」というのはいかに不自由な行為であって,本当はありのままを見ていないんじゃないか,ということもわかってきたね./つまり,「見る」とはものを歪める行為―一種の偏見であると.そしてなんでそういう〈歪める〉ことが起こるかと考えた.その理由を,世の中は三次元なのに網膜が二次元だからという点に求めたね.二次元の網膜に映ったものを,脳は強引に三次元に再解釈しなきゃいけない.これは脳が背負った宿命だ./それゆえに「見る」という行為は,おそらく人間の意識ではコントロールできなくなってしまった.無意識の現象だ.僕たちは脳の解釈から逃げることができない.「見える」というクオリアは脳の不自由な活動の結果なんだ./その意味では,ちょっと話は飛躍するけれども,ジェームズ‐ランゲが言った「悲しいから涙が出るんじゃない.涙が出るから悲しいんだ」という発言は半分は正しいと思う./〈悲しい〉とぴうのはクオリア,つまり,ありありと感覚されるものだね.しかし〈悲しい〉というクオリアは,おそらくは単に脳の副産物,脳の活動に過ぎない.クオリアは僕たちの生活や心にいろどりを与えてくれているものであることは間違いないけれども,神経活動から生まれたクオリアがまた神経に作用する戸云うことはない.クオリアそのものは脳が生んだ最終産物である,という結論に行き着いた.ここら辺は抽象的な話でちょっとむずかしかったかもしれない./3日目の講義では,人間が抽象的な志向をするということは間違いないわけで,じゃあ何の目的で抽象的な思考をするのかという理由を考えた.おそらく生きるための知恵として,目の前にある多くの事象のなかから隠れたルールを抽出するために重要だろうという話をしたね.見えるものの表層的な移ろいに流されないで,そこに潜んでいる基礎ベースを確実に抽出して,それを学習して別の機会に応用できるようにするために,抽象的な思考はひと役買っているんだろう,という話をした./その過程で,記憶というのは何ともあいまいで,よく間違えたりする.しかも,なかなか覚えられないなんて,そんな話も出てきた.でもよく考えてみると,そのあいまいさと学習の遅さがいかに重要かということにも気づいたね.正確無比な記憶というのは役に立たない.応用できないからね.応用できなかったら,覚えててもしょうがない./つまり,覚えなければいけない情報を有用化して保存するために,脳は事象を一般化する「汎化」ということをしている.その汎化をするために,脳はゆっくりと,そしてあいまいに情報を蓄えていくということがわかった.それが,我々の記憶ってわけだ./次に,その〈あいまいさ〉は脳のどこから生まれるのかという疑問を持った.神経の構造や仕組みを習って,そのあいまいさの起源はシナプスにあることを知ったね.さらに,シナプスの結合力が重要だという話もした.シナプスの結合力は記憶力と関係がある.シナプスの結合力が変化すると,記憶力も変化するという実験の話もでてきた./そうやって脳の仕組みの細部に踏み込んだところで,今度は逆の視点から,細部だけを見ていてはダメだよという話もした.神経やシナプスといった脳のパーツだけを知っても脳を知ったことにはならない.部分を単純に足し合わせた総和が「全体」だという考え方は危険だぞ,と.そういう意味では,なんでもかんでも単純化するのはまずいんじゃないかというわけだ./アインシュタインが「法則はシンプルなほど美しい」ということを言っているんだけど,残念ながらアインシュタインは「複雑系」を知らなかった./つまり,部分と全体というのは互いに不可分で,相互に影響を与えている.そして,部分と全体のバランスが崩れてしまったのが〈病気〉.その流れで今日はアルツハイマー病の話をしたんだ.さて,これで大きな講義の流れが思い出せたかな.*7


■雑記
本書の帯の宣伝文句,『しびれるくらいに面白い!』にたがわず,一気に読了した.平易な語り口で,しかし内容は先端の大脳生理学の知見を,つぎつぎに繰り出す池谷さんの講義を高校生の時に受けることのできた学生は幸運だろう.時に踏み込んだ解釈をし,時に結論の確定していない問題に飛び込んでゆく池谷さんのような教師がふえれば,きっと教育の現場はもっとずっと面白くなるに違いない.いろいろと得る所の多かった一冊であった.

*1:pp.80‐1

*2:pp.86‐7

*3:p.124

*4:pp.152‐3

*5:pp.192‐3

*6:p.198

*7:pp.316‐320

西島九州男,1982,『校正夜話』(エディター叢書・日本エディタースクール出版部・東京)

目次は略.以下おもしろかったところ,気になったところ.


西島氏が最初に勤めたのは警眼社(日本橋区=現中央区).

その時分の出版社というのは非常に小規模のものです.新潮社が当時新しい建物を建てたとき「ナナ御殿」といって評判になった.『ナナ』という翻訳小説が非常に売れたので,それで建てたんだろうということです.講談社は林町のしもた屋ですし,中央公論社も白山の手前の高台の普通のしもた屋です.相当な出版社でも,校正課とか校正部とかいうものがあるようになったのはかなり後のことで,編集部で校正も含めてやっていました./警眼社は日本橋区(現中央区)の呉服橋の側にあってもちろん電車なんか通ってなくて,大手町なんか女の人はとても一人では歩けないくらいに甚だ淋しい所でした.教科書のほか,法律書や警察関係の本を出していました./私はそのすぐ傍の飯屋の二階に下宿して通勤.六畳一間に三食付で九円.この下宿の夫婦は親切な人で,第一次欧州大戦後のインフレだというのに,逆に下宿代を七円に下げて自分たちの子供のように可愛がってくれました.初任給が十三円ぐらいの時です.初め日給が五十銭ぐらいで,そうすると月に十二,三円になるんですね.*1

岩波茂雄との出会い.

そこへ新聞に岩波書店の求人広告が出たんです.大正十三年の二月でした.震災直後,社運をかけて,第三次『漱石全集』を出すことになり,急に校正者がいるということだったのですね.その以前から出版にたずさわるなら,岩波書店をおいてほかにないと思っていたので,求めよ,さらばあたえられんと,入社試験を受けに行ったんです./一〇〇人ぐらいも来たんじゃないでしょうか.当時の岩波は狭い震災後の仮建築で,一階の表口が小売り場,二階が編集室でした.募集に応じて行ってみると,黒い詰えりの服を着た坊主頭の中年の人が出てきた.この人が岩波茂雄先生だったんです.大学卒業後一時女学校の先生をしていたので,書店でもみなが「先生」と呼んでいました.面接が先で,履歴書を見ていろいろ聞かれた.このあと試験ということで,駿河台下に図書クラブとかいう出版業者の大きな建物があって,そこに明日来てくれといわれたのが何十人かいたわけです./試験監督が野上豊一郎さん(後の法政大学長)と安倍能成さん(後の文相,学習院長)です.いずれも岩波先生の友人です.*2

その後,校正のテストも一番の成績で合格.めでたく岩波書店に入社がきまった西島さん.さてお給料は…

給料はどのくらい望むかと言われたので,私は仕事をするなら岩波書店でと思っていましたから,給料なんかどうでもいいですといったら,いや決して悪いようにはしないからと先生は言われる.(中略―引用者)大鐙閣の時は七十円でしたが,岩波書店での初任給は九十円.その時分一年に昇給することは稀で,上がっても五円か十円でしたが,私は十円ずつ一年間に二度上がって,直ちに一一〇円になりました.一〇〇円取るのは何人もいなかった時代ですから,待遇は良かったんでしょう.ボーナスも盆暮おのおの一ヶ月分くらいが普通だったらしいけれど,私と校正の同僚の和田君は三ヶ月ずつ貰ったものです.*3

岩波茂雄の創設した奨学金基金「風樹会」.

岩波先生は「風樹会」を作るのが年来の念願だったそうです.その基金として一〇〇万円,運用の費用を別に付けて出した.哲学・物理・数学等基礎科学の研究に従事する若い学徒への奨学金です.理事長を西田幾多郎先生,理事を岡田武松,高木貞治田辺元小泉信三の諸先生にお願いして,自分はなにも口を出さない無条件の奨学金です.その時分の一〇〇万円というのは大金でしょう.そのとき銀行には僅かしか預金がなかったそうですよ.だから支配人をやっていた堤さんが,五〇万円にしたらどうだと言ったら,「なあに金は働けばまた出来る」と言って,一〇万円の運営資金を付けて出した.*4

岩波茂雄の人柄.

半面,すごく早とちりで,私などもよく怒られましたが,わけがわかると,釈然としてわびられる.からっとした性質で,怒られても腹が立たず,かえっていい気持ちでした.出版人としても人間としても,先生は偉い人だと思う.だからいくら小言をいわれても,ちゃんと話せばわかるという気持ちがたえずあった.*5

西島さん,岩波茂雄のことべた褒めですな.

教科書の宣伝を新聞で.

その後一年おいて,今度は女学校用を作りましたが,それの方がよく出来ています.この時に,改めて教科書の新聞広告を一面の半分くらいを使って大々的に出したんですよ.さあ,教科書屋が驚いた.だいたい,教科書屋さんは先生に遣い物をしたり,修学旅行で東京へ来ると旅館へ押しかけて行っていろんなことをやっていたんでしょう.そういう販売方法をとっていた.だから新聞広告というのは初めてだ.それでびっくりして止めてくれという.しかし時分のところでこういうものが出来ましたと広告するんだから止めるわけにはいかんというわけです.とにかく良く売れました.*6


■西島さん略歴(編集後記より)
一,明治二十八年一月,熊本県植木町の商家にて出生.当年七十歳./一,少年時代画家たらんとした事もあったが,大正五年上京,警眼社(教科書,法律書,警察関係の雑誌図書出版社)に入社.これが出版関係の発足といえる./一,大正七年,武者小路実篤氏の新しき村建設に参加.主として農事に励む事満三年.大正十一年十二月,出版の仕事に従事すべく村を出て上京.翌春,当時進歩的出版物の書肆大鐙閣に校正主任として入社.十二年関東大震災により大鐙閣解散まで勤務.その後数ヶ月写真画報の編集に携ったが,大正十三年,岩波書店の校正係募集に応じ,応募者数百人(震災後の失業のため殺到)中より,試験委員野上豊一郎,安倍能成氏などの選考及び店主岩波茂雄氏の面接にパス,わずか一人の合格者として入店した.同店唯一の先輩故和田勇氏と共に漱石全集の編集校正に当たり,爾来校正及び編集の仕事を専ら一生の業とするに至った.和田氏の死後校正主任,戦後岩波書店が株式会社に改められ職制確立と共に初代校正課長の任を帯びた./一,五十五歳定年後は前任待遇常勤嘱託として勤続,仲間から大久保彦左衛門,こごと幸兵衛などの異名を貰い,小林会長からは仙人と呼称されつつ今日に至った.校正こそわが生命なりというのが偽らざる信念として貫いてきた.*7

■雑記
出版業界の黎明期の話を多く聞けるかなとおもって読んでみたら,あまりその話はなくってちょっとがっかり.後半は植字や正字法云々といった校正にまつわる文字話ばかりだったのでこの部分は興味なし.まあ,下宿の代金とか給料とか具体的なことが知れたのは収穫だ.略歴では省略されているけれども,麦南の号で俳人としても知られ,飯田蛇笏・龍太とも交流がある.個人的には,新しい村のくだりで,真面目で実直な気質の西島さんとそうではない人との葛藤に,西島さんの苦労を感じとった.西島さんの受けた入社試験の人数を,本文中(口述筆記かしらん)では「一〇〇人ぐらいも来たんじゃないか」と行っているのに,本人略歴の所では「数百人」という風に読み方にると人数が膨れ上る受験者数が掲載されているんだけれど,これに校正は入らんかったんか笑.

*1:pp.42‐3

*2:pp.66‐7

*3:pp.68‐9

*4:p.72

*5:p.73

*6:pp.134‐5

*7:pp.191‐2