西島九州男,1982,『校正夜話』(エディター叢書・日本エディタースクール出版部・東京)

目次は略.以下おもしろかったところ,気になったところ.


西島氏が最初に勤めたのは警眼社(日本橋区=現中央区).

その時分の出版社というのは非常に小規模のものです.新潮社が当時新しい建物を建てたとき「ナナ御殿」といって評判になった.『ナナ』という翻訳小説が非常に売れたので,それで建てたんだろうということです.講談社は林町のしもた屋ですし,中央公論社も白山の手前の高台の普通のしもた屋です.相当な出版社でも,校正課とか校正部とかいうものがあるようになったのはかなり後のことで,編集部で校正も含めてやっていました./警眼社は日本橋区(現中央区)の呉服橋の側にあってもちろん電車なんか通ってなくて,大手町なんか女の人はとても一人では歩けないくらいに甚だ淋しい所でした.教科書のほか,法律書や警察関係の本を出していました./私はそのすぐ傍の飯屋の二階に下宿して通勤.六畳一間に三食付で九円.この下宿の夫婦は親切な人で,第一次欧州大戦後のインフレだというのに,逆に下宿代を七円に下げて自分たちの子供のように可愛がってくれました.初任給が十三円ぐらいの時です.初め日給が五十銭ぐらいで,そうすると月に十二,三円になるんですね.*1

岩波茂雄との出会い.

そこへ新聞に岩波書店の求人広告が出たんです.大正十三年の二月でした.震災直後,社運をかけて,第三次『漱石全集』を出すことになり,急に校正者がいるということだったのですね.その以前から出版にたずさわるなら,岩波書店をおいてほかにないと思っていたので,求めよ,さらばあたえられんと,入社試験を受けに行ったんです./一〇〇人ぐらいも来たんじゃないでしょうか.当時の岩波は狭い震災後の仮建築で,一階の表口が小売り場,二階が編集室でした.募集に応じて行ってみると,黒い詰えりの服を着た坊主頭の中年の人が出てきた.この人が岩波茂雄先生だったんです.大学卒業後一時女学校の先生をしていたので,書店でもみなが「先生」と呼んでいました.面接が先で,履歴書を見ていろいろ聞かれた.このあと試験ということで,駿河台下に図書クラブとかいう出版業者の大きな建物があって,そこに明日来てくれといわれたのが何十人かいたわけです./試験監督が野上豊一郎さん(後の法政大学長)と安倍能成さん(後の文相,学習院長)です.いずれも岩波先生の友人です.*2

その後,校正のテストも一番の成績で合格.めでたく岩波書店に入社がきまった西島さん.さてお給料は…

給料はどのくらい望むかと言われたので,私は仕事をするなら岩波書店でと思っていましたから,給料なんかどうでもいいですといったら,いや決して悪いようにはしないからと先生は言われる.(中略―引用者)大鐙閣の時は七十円でしたが,岩波書店での初任給は九十円.その時分一年に昇給することは稀で,上がっても五円か十円でしたが,私は十円ずつ一年間に二度上がって,直ちに一一〇円になりました.一〇〇円取るのは何人もいなかった時代ですから,待遇は良かったんでしょう.ボーナスも盆暮おのおの一ヶ月分くらいが普通だったらしいけれど,私と校正の同僚の和田君は三ヶ月ずつ貰ったものです.*3

岩波茂雄の創設した奨学金基金「風樹会」.

岩波先生は「風樹会」を作るのが年来の念願だったそうです.その基金として一〇〇万円,運用の費用を別に付けて出した.哲学・物理・数学等基礎科学の研究に従事する若い学徒への奨学金です.理事長を西田幾多郎先生,理事を岡田武松,高木貞治田辺元小泉信三の諸先生にお願いして,自分はなにも口を出さない無条件の奨学金です.その時分の一〇〇万円というのは大金でしょう.そのとき銀行には僅かしか預金がなかったそうですよ.だから支配人をやっていた堤さんが,五〇万円にしたらどうだと言ったら,「なあに金は働けばまた出来る」と言って,一〇万円の運営資金を付けて出した.*4

岩波茂雄の人柄.

半面,すごく早とちりで,私などもよく怒られましたが,わけがわかると,釈然としてわびられる.からっとした性質で,怒られても腹が立たず,かえっていい気持ちでした.出版人としても人間としても,先生は偉い人だと思う.だからいくら小言をいわれても,ちゃんと話せばわかるという気持ちがたえずあった.*5

西島さん,岩波茂雄のことべた褒めですな.

教科書の宣伝を新聞で.

その後一年おいて,今度は女学校用を作りましたが,それの方がよく出来ています.この時に,改めて教科書の新聞広告を一面の半分くらいを使って大々的に出したんですよ.さあ,教科書屋が驚いた.だいたい,教科書屋さんは先生に遣い物をしたり,修学旅行で東京へ来ると旅館へ押しかけて行っていろんなことをやっていたんでしょう.そういう販売方法をとっていた.だから新聞広告というのは初めてだ.それでびっくりして止めてくれという.しかし時分のところでこういうものが出来ましたと広告するんだから止めるわけにはいかんというわけです.とにかく良く売れました.*6


■西島さん略歴(編集後記より)
一,明治二十八年一月,熊本県植木町の商家にて出生.当年七十歳./一,少年時代画家たらんとした事もあったが,大正五年上京,警眼社(教科書,法律書,警察関係の雑誌図書出版社)に入社.これが出版関係の発足といえる./一,大正七年,武者小路実篤氏の新しき村建設に参加.主として農事に励む事満三年.大正十一年十二月,出版の仕事に従事すべく村を出て上京.翌春,当時進歩的出版物の書肆大鐙閣に校正主任として入社.十二年関東大震災により大鐙閣解散まで勤務.その後数ヶ月写真画報の編集に携ったが,大正十三年,岩波書店の校正係募集に応じ,応募者数百人(震災後の失業のため殺到)中より,試験委員野上豊一郎,安倍能成氏などの選考及び店主岩波茂雄氏の面接にパス,わずか一人の合格者として入店した.同店唯一の先輩故和田勇氏と共に漱石全集の編集校正に当たり,爾来校正及び編集の仕事を専ら一生の業とするに至った.和田氏の死後校正主任,戦後岩波書店が株式会社に改められ職制確立と共に初代校正課長の任を帯びた./一,五十五歳定年後は前任待遇常勤嘱託として勤続,仲間から大久保彦左衛門,こごと幸兵衛などの異名を貰い,小林会長からは仙人と呼称されつつ今日に至った.校正こそわが生命なりというのが偽らざる信念として貫いてきた.*7

■雑記
出版業界の黎明期の話を多く聞けるかなとおもって読んでみたら,あまりその話はなくってちょっとがっかり.後半は植字や正字法云々といった校正にまつわる文字話ばかりだったのでこの部分は興味なし.まあ,下宿の代金とか給料とか具体的なことが知れたのは収穫だ.略歴では省略されているけれども,麦南の号で俳人としても知られ,飯田蛇笏・龍太とも交流がある.個人的には,新しい村のくだりで,真面目で実直な気質の西島さんとそうではない人との葛藤に,西島さんの苦労を感じとった.西島さんの受けた入社試験の人数を,本文中(口述筆記かしらん)では「一〇〇人ぐらいも来たんじゃないか」と行っているのに,本人略歴の所では「数百人」という風に読み方にると人数が膨れ上る受験者数が掲載されているんだけれど,これに校正は入らんかったんか笑.

*1:pp.42‐3

*2:pp.66‐7

*3:pp.68‐9

*4:p.72

*5:p.73

*6:pp.134‐5

*7:pp.191‐2