大東和重,2006,『文学の誕生 藤村から漱石へ』(講談社メチエ・講談社・東京)

序章 文学の新紀元―日露戦後新文学の勃興
第一章 技術批評を超えて―島崎藤村『破戒』の表層と深層
第二章 自己表現の時代―〈国木田独歩〉を読む〈私〉
第三章 読むことの規制―田山花袋『蒲団』と作者をめぐる思考の磁場
第四章 文学の〈裏切り〉―小栗風葉をめぐる・文学をめぐる物語
第五章 軽文学の王・夏目漱石―あるいは明治四十年,文学の自己同一化
終章 文学のための物語―文学概念・文学史


明治39年前後に照準.この年が文学にたいする批評や評価の転換点であったという.

この明治三十九年は,「いたづらに戦後の文壇などゝ空騒ぎばかりしてゐた」と揶揄されもする(「緩調急調」『文章世界』明治三十九年十二月)とはいえ,多くの時評は,「明治芸術史にて忘るべからざる歳」になった(正宗白鳥漱石と二葉亭(月旦)」『文章世界』明治四十年一月)とする.「戦後の文壇に於て,如何に文人が自覚の地位に達せるかを知るに難からず」(「時評 明治文芸史の一区画(一年を回顧す)」『新声』明治三十九年十二月).「文壇も確かに戦勝国勃興の気運に刺戟されて活気を帯びて来た」(忘憂子「文芸時評」『読売新聞』明治三十九年十二月二十三日).三十九年を総括した回顧の多くは,このように,戦勝国にふさわしい文学者としての自覚,新興の機運が見られた,収穫の年であったと記す.*1

39年にいたる前夜は…

硯友社一派や門下を数多有し,明治半ばの文壇の巨頭だった尾崎紅葉は,日露戦争の前年,三十六年に病没した.その前年には,俳句・和歌,評論の,それぞれのジャンルを領導する役割を果たした,正岡子規高山樗牛が,ともに夭折.また日露開戦の年には,江戸戯作の風刺の系譜を最も色濃く継承する作家だった,斎藤緑雨が死ぬ.日露戦争の直前に,明治半ばの文壇を代表する四人の作家が,あいついで仆れた.*2

存命であっても,一線から退いていた者は多い.坪内逍遥は,当時,演劇改革に熱中,明治三十九年二月に文芸協会を設立し,文壇の一線にはなかった.幸田露伴は,三十六年から『読売新聞』に『天うつ浪』を連載するも,続行を書きあぐね,三十八年五月で中絶,文壇の中心から遠ざかる.森鴎外は,戦場で盛んに作った和歌に興味を覚え,帰国後も,三十九年九月より歌会常磐会を開催していた.広津柳浪は,短篇などを数多く発表しているものの,三十五年十月の「雨」(『新小説』)を境に低調期に入っている.このように日露戦後の文壇に,大家があいついで去り,遠ざかっていたゆえの,空白があったことは事実である*3

新旧作家の交代だけでなく,出版界でも新旧勢力の争いがあった.その中でも,帰朝した島村抱月のもとで明治三十九年に復刊された『早稲田文学』は新文学の動向を察知・指導する中心的な役割を果たすことを目指し,新雑誌の旗手となる.「『早稲田文学』の画期的戦略は,単に新文学の先導役を務めようとしただけでなく,大学を背景にしたアカデミックな誌風を前面に押し出したことにある.当時文壇の中心的雑誌の一つであった『文芸倶楽部』が,「文芸と芸妓との調和」と嘲笑された(「六号活字」『文庫』明治三十九年二月一日)ごとく,旧雑誌には文芸を娯楽読物として扱う気味があった.これに対し,『早稲田文学』は明確に文学を高級な芸術として扱う.(p.18)」という.


39年前後におけるもっとも大きな文学上の価値観の転換とは,次.

ここにおいて,新旧作家の境界線は,単なる文壇登場の時期ではなく,作者が作品と結ぶ関係の質において引かれ,それぞれに属性が付随する.旧作家の作品は脚色構成や文章の技巧において優れるが,「新傾向の作家」は,作者の人格や主観,個性のオリジナリティによって価値を有する,というように.新作家の作品は,「作家個々の性格を表現する」点において,作家と有機的な関係を結んでいるとされる.ここでは,作品の技術的な評価から,作品に作家の個性のオリジナリティが表現されているかどうかの判断へと,文学評価の座標軸そのものが書き換えられている.*4

本書のねらいは

のちに文学史に栄誉ある作家として登録された,あるいはそこから没落した作家たちの有為転変を,日露戦後当時の文学空間に立ち戻り,たどり直すことで,いったん確定されると普遍的となり,その歴史性や自明さを疑うことが困難な文学史,そしてその文学史を支える〈文学〉なる概念が強固に形成された過程を検証する.日露戦後の文学を,現在の既に確定された文学史から,当時の文学空間へと還元し,解体して,〈文学〉が形成された歴史的過程を,当時の雑誌や新聞の記述にもとづき再構成する.それによって,〈文学〉がそなえるに至った強固な思考の力の磁場を,〈文学〉が非〈文学〉として排除した可能性,文学史からこぼれ落ちた作家たちの可能性とともに,明らかにしていく.*5

この部分の着想は,注にもあるように(p.222‐3),
柄谷行人,1988,『日本近代文学の起源』(講談社学芸文庫・講談社・東京)
ピエール・ブルデュー石井洋二郎(訳),1995/96,『芸術の規則』Ⅰ・Ⅱ(藤原書店・東京)
に示唆を受けている.


以上.

■雑記
当時の文学空間に立ち返って文学の成立と自己正当化の過程をつぶさに見ていく,と冒頭で宣言している通り,明治39年前後の資料を渉猟して読み込んでいて,とても丁寧な仕事でおもしろかった.この5人の批評を通じて明らかになるのは,上で筆者が述べていることある.小栗風葉の代作が問題にされるのも,表層としての作品の深層に作者を見てとる批評・評価の仕方が定着したことを「裏切っている」からであるしね.一章と二章がよかった.五章は食い足りない感じ.この食いたいりなさは,大東さんのせいというよりは明治39年前後の漱石評価そのものがはっきりしないせいが大きいんだろうな.

■資料とか
「破戒」評が載った,「明治三十九年五月までの,比較的名の通った新聞雑誌(p.31‐2)」は
東京日日新聞』『読売新聞』『東京二六新聞』『太陽』『中央公論』『新小説』『文芸倶楽部』『芸苑』『新古文林』『新声』『新潮』『文章世界』『文庫』『明星』『白百合』『ホトトギス』『慶応義塾学報』『帝国文学』『早稲田文学

*1:p.7

*2:p.10

*3:pp.10‐1

*4:p.21‐2

*5:p.23‐4